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図書新聞経済時評1998.2.

 

オカルト的新自由主義?

――啓蒙された時代の反啓蒙

 

橋本努

 

 啓蒙主義からみればオカルト的なものであっても、反啓蒙主義からすれば十分理性的にみえるものがある。市場における「神の見えざる手」である。人々が「見えざる手」という秩序化作用を信頼して行動すれば、市場はなぜかうまく機能する。逆に見えざる手を信頼しなければ、秩序は不安定化する。とくに金融の秩序の場合、市場を信頼して不安を抱かない、あるいは抱かせないことが重要となる。

 市場社会を安定化させようと思ったら、人々はみな、「見えざる手」という理性的にはよく分からない作用に従わなければならない。よく分からないものに従え、というのだから、オカルト的である。この考え方、八〇年代に台頭した「新自由主義」に親近性がある。新自由主義は、「見えざる手に従え」というだけでなく、市場文明全体を機能させるために「伝統を再生しろ」「慣習に従え」と訴える。啓蒙主義の観点からみれば、これは理性を犠牲にしたオカルト、すなわち隠秘化されたものへの魅惑である。およそ理性的な人が盲信的だと非難する思想は、語の真の意味においてオカルト的である。

 新自由主義の思想を代表するハイエクには、どうやらオカルト的魅力があるらしい。啓蒙によって排除・隠蔽されてきた諸作用を解き放ち、市場の自生的な秩序化作用を活性させようとする彼の発想は、隠秘的・悪魔的な力との結託を求めているかのように見える。高橋洋児『市場システムを超えて』(中公新書、一九九六年)は、「自由主義の守護神のごとくあがめられるようになったハイエク」を、極端主義だと批判する。批判というよりも感情的非難に近い。高橋によれば、ハイエクは経済事象の「明るい面しかみていない……。盆栽いじりか箱庭づくりをしているとしか思えない。」ハイエクが「わざわざこんなに極端な言い方をしてまで理性に難くせをつけるのは、どういうものか。」

 このように非難されるハイエク。現在、『ハイエク全集』(春秋社)が復刊中である。今年三月までにすべて出揃う予定だ。またハイエク全集の第二期として、新たに数冊の翻訳企画がある。この他、自伝も邦訳中である。これとは別に自伝も邦訳中とのこと。

 週刊ダイヤモンドの企画し「ベスト・オブ・経済書――経済学者・経営学者・エコノミスト100人が選ぶ70冊」(九七年一二月二〇日号)は、充実した読書ガイドとなっているが、ハイエクは第四位、一位は青木昌彦、であった。ただしこの読書ガイド、八〇〇人にアンケート用紙を配ったものの、一一三人からしか回答を得られなかったという。なんとも淋しい。

 さて、新自由主義の思想を経営理念として取り入れるとどうなるか。三橋規宏『ゼロエミッションと日本経済』(岩波新書、一九九七年)は、資源循環型の社会をめざす常識破りの企業として、北海道の住宅総合メーカー「木の城たいせつ」を取材している。この会社、環境に取り組む点で評価されたようだが、新自由主義的な思想をもつ点でもユニークである。例えば、@官庁に頼らず、むしろ反官庁の姿勢をとる。A政治参加する市民よりも、「もったいない精神」をもった経済生活者の視点に立つ。B住宅街の公共的景観よりも家庭の団欒と居心地を重視する。C父親を中心とする権威・伝統・道徳を再生し、家族三世代で暮らすことを提案する。D百年保つ住宅を作り、伝統を根づかせる。そしてオカルト的かもしれないが、E経営理念を簡単な曼陀羅の図に当てはめて表現し、あるべき生活の理念をアピールする。――以上のような特徴から、反政府・市場・伝統という新自由主義の理念が読み取れる。

 もっともこの会社がカルト的であるかどうかは分からない。「週刊ダイヤモンド」による中間管理職へのアンケート「それでも会社をやめられない」(九七年一二月一三日号)によると、ここ一〇年で会社への忠誠心が弱くなったと答える人は七六%に達する。また、社員が自分のとる行動次第で仕事の状況を統制できるという「統制感」は、企業の経営理念やビジョンが明確であるかどうかに相関するとのこと。こうしたアンケート結果からすれば、カルト的な忠誠心のないオカルト的経営体という道も、意外と開かれているのではないか。

(経済思想)